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トルホースト医師と一緒に病院スタッフとして勤務していたスタッフと座談会に出席したジョージ・マッカーサー米海兵隊大尉(前列右)。マッカーサー大尉の祖父は宣教師として戦後の沖縄を訪れ、同時に医師として、沖縄県民のため尽力してきました。

Photo by Nika Nashiro

沖縄へ家族のルーツ探しに戻ってきた海兵隊員

25 Oct 2019 | Nika Nashiro U.S. Marine Corps Forces, Pacific

ジョージ・トルホースト・マッカーサー米海兵隊大尉は、彼が生まれるずっと前、彼の祖父2人が沖縄に滞在していたことがあったので、沖縄に縁を感じていました。

父方の祖父は1945年、沖縄戦でアメリカ陸軍兵として沖縄に上陸していました。

母方の祖父はその11年後、宣教師として沖縄を訪れ、5年間沖縄に住んでいました。

マッカーサー大尉が少年期の1999年、母に連れられ、母の乳母(うば)で家政婦でもあった普天間信子さんに会うため、初めて沖縄を訪れました。

そして2014年、初めての赴任地として沖縄に戻ってきて、現在は第31海兵遠征部隊の広報将校として沖縄で勤務しています。

マッカーサー大尉は「沖縄で勤務できると聞いて、とても興奮したのを覚えています。母や叔父から沖縄で過ごした小さい頃の話をたくさん聞いていて、私も小さいとき沖縄を訪れましたが、大人になった今、家族の歴史や亡くなった祖父の足跡についても、もっと知りたいと思いました」と話していました。

母方の家族の沖縄での歴史は、医師で宣教師でもあった祖父が家族と共に初めて沖縄に到着した1956年にまでさかのぼります。

戦争で荒廃(こうはい)した沖縄は、医療関係者の3分の2を戦争で失い、医師や診療施設も数が限られていました。

そんな中、セブンスデー・アドベンチスト教会は195311月、那覇市首里で週2日、米軍医の協力を得て、小さな診療所を開設しました。戦後の沖縄での医療施設の設置などの人道的な取り組みは、宣教師の地域住民への布教活動の一つでもありました。

そして19581月、浦添市牧港に、祖父が医師を務める分院が開設されました。

19593月、那覇市上之屋にアドベンチスト・メディカルセンター病院(AMC)が新設開院し、祖父が初代院長として就任しました。

戦後の沖縄では、衛生施設や医療施設での利用が制限されていたため、赤痢、麻疹、脳炎、結核などの伝染病が流行していました。米軍が時として医療と薬を無料で提供していて、患者たちは、米軍から寄付されたペニシリンやステロイドなどの抗生物質の即効性に驚いていました。

その効果は口コミで県内に広まり、患者は県内いたるところからAMCを訪れ診察を受けるようになっていました。米国から直接輸入された薬は、その当時、日本本土ではまだ入手できませんでした。

1956年から1960年にかけて祖父のトルホースト医師と一緒に病院スタッフとして勤務していた方々が今月3日集まり、マッカーサー大尉に当時の事を回想して話してくれました。

当時、看護師をしていた金城さんは「トルホースト先生は沖縄に来て当初、まったく日本語を喋れませんでしたが、いつの間にか患者と日本語で何の問題もなく会話していたので、通訳する看護師が必要なくなりました。当時病院には、皮膚科、産科、内科、精神科などがあり、トルホースト先生が唯一の医師だったので、病院全体をみていました」と話してくれました。

AMCの医師と看護師はスタッフ不足のため、設立当初の数年間は常に働いていました。最も忙しい日には600人の患者を治療し、病院が大きくなればなるほど、患者の数も増えていきました。

普天間さんは「風邪をひいているトルホースト先生が働いていたのを覚えています。患者第一で、先生が仕事を休むと看護師に負担をかけることを知っていました」と振り返って話していました。

普天間さんは、トルホースト医師と緊密に協力した最初の職員の一人で、トルホースト家がアメリカに帰省したとき、一緒にアメリカに渡米し、2年以上に渡ってトルホースト家の家政婦として働きました。彼女は今でも、マッカーサー大尉の祖母が教えてくれたレシピでクッキーやパンを焼き、レシピを守り続けています。

普天間さんは「私がアメリカにいた時、ジョージの母親を自分の子供のように世話をしていました。だから私はジョージの事を自分の孫のように思っています。そして今回、彼が私を探し出してくれ、会いに来てくれたことにとても感謝しています」と嬉しそうに話してくれました。

亡くなった祖父母と一緒に仕事をした方々に再会でき、マッカーサー大尉には伝えられていなかった思い出や歴史が伝えられ、彼は初めて聞く家族の逸話を通して当時を過ごした気持ちになれました。

マッカーサー大尉は「みんなに会えて光栄でした。祖父と過ごした日々の事や、彼が治療を必要としていた人たちのため尽力していたことを聞くことができました。戦争で荒廃した悲惨な沖縄の姿を目の当たりにし、苦難を乗り越えてきた記憶や経験を社会に伝え、過去から学び、多様性を認め、互いの文化を尊重し、必要としている人たちに尽くすことで、社会全体の利益につながります」と最後に述べていました。


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