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海兵隊員が10年ぶりに気仙沼大島へ

By Maj. Caleb Eames | U.S. Marine Corps Forces, Japan | March 12, 2021

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10年前のこの日、第三海兵遠征軍の部隊は、2011年3月11日に発生した東日本大震災による壊滅的な地震、津波、原子力発電所の事故の後、同盟国の救援要請に応えるため、凍てつくような寒さの中、東北地方に駆けつけました。

第3海兵遠征旅団は仙台に飛び、自衛隊と共に前方指揮部隊を設置し、アメリカインド太平洋軍は「トモダチ作戦」の一環として、傘下の地域から統合部隊を被災地に派遣しました。

第31海兵遠征部隊は、インドネシアで予定されていた災害救助訓練から急遽引き返し、宮城県の孤立していた離島、大島に3月27日に上陸し、電力復旧のための高所作業車を届け、その後、大規模な瓦礫の撤去作業を開始しました。

海兵隊が到着する前、港は瓦礫で塞がれ、フェリーは岸に打ち上げられ、本土との連絡もすべて途絶え、島民は外部からの支援をいっさい受けていませんでした。

12メートルを超す津波は、島の中央部までを飲みこみ、すべてを破壊していました。

2021年3月7日、東京の米国大使館と第3海兵遠征旅団の海兵隊員が、震災から10年を迎えた大島で、記念式典に出席しました。

大島の人々は、島民と在沖縄海兵隊との強い絆を称えるため、「絆を永遠に・・・萬謝(ばんしゃ)をこめて」と刻まれた記念碑の除幕を行いました。

震災の生存者であり式典の主催者である菊田玲子さんは「大島の島民と沖縄の海兵隊との関係は強く、永続的であり、それは永遠に続くでしょう。10年前、私たちが大変困難な時期を過ごしている最中、支援してくれたことにとても感謝しています」と述べました。

式典に出席した海兵隊員は、「大島の人々はヒーローです。あの未曽有の災害の中、すべてを失ったにもかかわらず、前向きな気持ち持ち続け、海兵隊員以上に懸命に瓦礫の撤去や秩序の回復、そして再建に取り組んだのです。島民のみなさんは、逆境を乗り越える忍耐力と、困難にも負けない不屈の精神の模範を示してくれました」と話していました。

式典には、震災を生き延び、第31海兵遠征部隊と共に被災地の救済に尽力した市職員や島民が出席しました。

関係者によると、今回のイベントは、日米同盟を支えるための自衛隊との相互運用の重要性を強調するものだといいます。

東京の米国大使館駐在武官のポール・バートック中佐は「海兵隊の『トモダチ作戦』における東北地方での自衛隊との共同作業は、過去数十年間で最も重要な同盟構築のイベントの一つでした。第3海兵遠征旅団は早々に仙台入りし、第31海兵遠征部隊は大島で活動、米軍は東北地方の人々を救援するために駆けつけました。私たちは複雑な問題を解決し、今日私たちが実践する相互運用性と危機対応に関する貴重な教訓を学びました。また、将来、援助が必要な際には、海兵隊と統合部隊は10年前の災害時の経験をもとに、同盟国である日本に対してより良い援助ができることだろうと思います」と述べました。

震災後、気温は氷点下であったにもかかわらず、島には電気や暖をとるすべなど、何もありませんでした。

海兵隊が上陸し水を持ってくるまで、島では学校のプールを飲み水として使っていて、他にも温水シャワーや数百トンの瓦礫を撤去する重機を島に搬入しました。

海兵隊員らは瓦礫を撤去するとき、倒壊した家から貴重品や家宝などを探し出し、申し出がある場合に備えてそれらを保管しました。

300人を超える隊員たちが一週間以上も島に滞在し、3000人以上の島民が、最終的に電気や水、そして何よりも重要である暖をとることができるまで支援を続けました。

また隊員たちは、津波で陸に打ち上げられた漁船を海へと戻し、漁師たちがまた漁に出られるようにしました。

元海兵隊政務外交部次長ロバート・エルドリッジ博士は、海兵隊が任務を終え沖縄に戻った後も、島の人々とのさまざまな交流は続きましたと話しました。

エルドリッジ博士は、「トモダチ作戦」が始まってまもなく、島の人々を励ますために文化交流を提案しました。

式典に出席したエルドリッジ博士は、「地域が甚大な災害に見舞われたとき、身体的な回復や街の再建など幾多のことをしなければなりません。しかし、見過ごされることが多いですが、感情や心理的そして精神的な立ち直りが一番困難なことなのです。大島と沖縄の海兵隊との絆は、目に見える建物や橋、そして再建工事などよりももっと深い部分で、大島の復興にとって非常に重要なものであることを象徴しています。このことは、災害に巻き込まれた、私たちの未来である子供たちにとって、より重要なことなのです」と説明していました。

海兵隊は、大島・沖縄青少年文化交流プログラムを3度にわたり公式で開催し、大島の子供たちが海兵隊員やその家族と過ごすために沖縄を訪れました。

大島の子供たちは、震災で家族を失った子どもたちも含めて、被災した島から数日間かけて沖縄へ渡り、軍人や民間の国防総省のホストファミリーと一緒に過ごしました。

子供たちはプールで泳いだり、アメリカ料理を食べたり、スポーツや異文化交流イベントなど、基地内の青少年プログラムを体験をしたり、施設を利用したりしました。

それは子供たちのストレスを解消し、心を落ち着かせ、希望を持つことができるように工夫されたものでした。

震災当時、海兵隊太平洋基地で勤務していたレイモンド・リチャーズ氏は、交流の一環で、リチャーズ氏自身と彼の妻、娘が住む家に2人の少女を招待しました。

今回の10周年記念式典に一家は出席できませんでしたが、その後もずっとその少女たちとリチャーズ一家との交流は続いています。

リチャーズ氏は、「大島の人々が2011年3月11日のあの未曽有の日から10年の節目を迎える日に、大島の人々と共に式典に参加できたらと残念に思います。2012年には妻と娘がミキとチカの小学校卒業式に出席し、6年前には中学卒業式に全員で出席しました。2018年には高校の卒業式にも参加しました。今日、式典に参加できないことは残念ですが、大島の私たちの娘たちを誇りに思っているのは確かです。この10年間、彼らが見せてくれた強さと忍耐力には感銘を受けました」と述べていました。

沖縄に招待された子供たちの一人で、震災当時11歳だった、現在21歳の小野寺こうきさんは「沖縄の海兵隊を訪問したことは、いい思い出として私の記憶に残っています。最も重要だったのは、人とのつながりや交流の機会の大切さでした。孤立していた私たちにとって、ホームステイプログラムは大きな助けとなり、将来への希望をもつことができました」と話していました。

この出来事をきっかけに、海兵隊員などの家族が大島を訪れたり、大島の家族が沖縄を訪れたりと、私的な交流がさらに続きました。

震災当時8歳だった菊田航さんは「沖縄に行くたび、そして、海兵隊の皆さんが私に会いに来てくれるたび、海兵隊の皆さんとの関係が深まっていきました」と話していました。

彼の実家でもある魚屋は、海からわずか数メートル、浦の浜漁港の近くにありました。

8歳でありながら、家の瓦礫をかき分けて貴重品を見つけようとしていた彼、懸命に作業をする力強さがあり、海兵隊員にどこを掘るのか指示を出す彼を、海兵隊員たちは、災害の中で島の強さを象徴する存在として見ていました。

その後、交流プログラムを含めて2回沖縄を訪れ、さらに海兵隊員や関係者も彼のもとを何十回も訪問しました。

18歳になった彼は、約180センチほどの背丈で、かつて共に作業をした海兵隊員を見下ろすほど成長し、当時のことを懐かしく思い出します。

航さんは「10年前、海兵隊員たちは、指示を出す私の仕事ぶりを見て感心していました。今となっては、いかにお互いに助け合っていたかがわかります」と話していました。

大島の記念碑には、「あなたたちは、忍耐と強さを表す象徴です」と刻まれています。

それは、沖縄の海兵隊の支援に感謝の意を表す大島の人々と、上陸した海兵隊員が見た大島の人々の力強さと不屈の精神、逆境の中の日本人の精神の強さを表現しています。

大島と海兵隊との緊密な関係は、日米同盟の「永遠の友情」を「ともに」と体現しています。

第3海兵遠征旅団は強靭で即応体制が整っており、且つ対応能力に優れ、また、第三海兵遠征軍は前方展開し続け、忠実に日本という友人や同盟国と協力して将来の危機に対応することに注力しているのです。



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