基地

日本にある在日米海兵隊基地の説明です。

 

地域での役割と活動

 

沖縄は太平洋における戦略的シーレーンに近接しており、地理的に重要な位置にあります。

在日米海兵隊はアメリカ海兵隊として唯一海外に展開している即応部隊で、インド太平洋地域で紛争が発生した場合、迅速に展開できるよう即応体制維持の重要な役割を担っています。

在日米海兵隊基地は前進基地として多大な能力を有し、前方補給地としても仕えています。

在日米海兵隊は地域の人々の支援を惜しまず、インド太平洋全域での人道支援および災害救援活動において重要な役割を担ってきました。

様々な国々との合同訓練や民事活動プログラムも行っていて、地域の繁栄と安定を維持し、平和の強化にも役立っています。

日本にあるすべての米海兵隊基地の施設管理や後方支援任務を行っているのが米海兵隊太平洋基地で、指揮下には日本のみならず、韓国、グアムやハワイにあるアメリカ海兵隊基地も含まれます。

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Expand List item 8210Collapse List item 8210  キャンプ・バトラー(Camp Butler) 

キャンプ・バトラー

 

キャンプ・バトラーは沖縄県北中城村にある米海兵隊太平洋基地司令部ビルに所在し、沖縄県内にあるすべての海兵隊基地および海兵隊施設を統括する組織の名称です。

キャンプ・バトラーはアメリカ海兵隊員として唯一、名誉勲章を二度受章した二名のうちの一人、スメドリー・バトラー少将にちなんで命名されました。

キャンプ・バトラーの任務は沖縄県内にある全ての海兵隊施設や駐留する海兵部隊の訓練場、職場施設の継続的かつ合理的なサービスを提供することで、海兵隊が効果的に訓練を実施し、日米安全保障の任務を遂行できるよう、必要な支援を提供することです。

キャンプ・バトラーに属する主な海兵隊の施設は、次の8つの基地です。

Expand List item 8205Collapse List item 8205  キャンプ・フォスター/レスター (Camp Foster/Lester)

 

 

キャンプ・フォスター キャンプ・レスター

キャンプ・フォスターは沖縄本島中部に位置するアメリカ海兵隊の駐屯地です。

沖縄市、宜野湾市、北谷(ちゃたん)町、北中城(きたなかぐすく)村の四市町村にまたがって所在していて、基地名は名誉勲章(メダル・オブ・オナー)を受章したウイリアム・フォスター 1等兵の名前に由来しています。

いまだに米陸軍当時の名称でキャンプ瑞慶覧(ずけらん)と呼ぶ人もいますが、実際には1975年に米陸軍から米海兵隊に移管した際に、基地名も変更しています。

キャンプ・フォスターに隣接するキャンプ・レスターは軍人やその家族の住宅地として使用しています。

キャンプ・レスターの名は沖縄戦で活躍し名誉勲章を受章した病院の実習生、フレッド・レスター1等兵曹にちなんで名付けられました。

任務

キャンプ・フォスターの任務は基地内の部隊への作戦、運営、モラル、安全そして防衛支援管理です。

キャンプ・フォスター内には、司令部、兵舎や住宅、小中高校、消防署、郵便局、銀行、教会、スーパー、映画館やボウリング場といった娯楽施設など、日常生活に必要なものがほとんど揃っており、1つの街として形成されています。

キャンプ・レスターは沖縄県北谷町にある米軍の住宅専用地域です。 1977年、米陸軍から米海兵隊に移管されました 。

キャンプ・レスターは1996年のSACO最終報告により、大部分の返還が合意されています。

1998年、キャンプ・レスター内に北谷町の庁舎が建設され、2003年に北谷町庁舎の土地を含む施設の北側部分が返還されました。

地域への関与

基地内からの海兵隊員のボランティアが地元の学校、孤児院、老人ホームなどを訪ねたり、基地内のフリーマーケットやフェスティバルなどで住民を招待し友好関係を築いています。

Expand List item 8209Collapse List item 8209  キャンプ・キンザー(Camp Kinser)

 

 

キャンプ・キンザー

キャンプ・キンザーは沖縄県浦添市の西海岸沿いにあるアメリカ海兵隊の駐屯地です。

この基地は沖縄戦で戦死し、名誉勲章を受章したエルバート・キンザー伍長にちなんで命名されました。

1945年、沖縄に進行してきた米陸軍が沖縄南飛行場を接収し、米軍の物資集積所として建設しました。

1978年、米陸軍から米海兵隊に移管されました。

任務

収納庫が集合していて、那覇港に近接していることから兵站基地として後方支援に理想的な場所に設置されています。

キャンプ・キンザーの任務は、継続的な戦務支援(整備、補給、工作、そして医療支援)を在日米海兵隊に提供することです。

地域への関与

浦添地域の人々と基地内に住む軍人とその家族が友好関係を継続できるよう、スポーツイベントを始め、キンザーフェストやクリスマスツリーのライトアップやパレードなどの行事を一般の人々にも開放しています。

キャンプ・キンザーにある多くの施設は、基地内で暮す家族を支援するために設立されたもので、託児所や小学校、教会や医療施設、スーパーや飲食店、映画館やボウリング場などの娯楽施設もあります。

Expand List item 8207Collapse List item 8207  キャンプ・コートニー/マクトリアス(Camp Courtney/ McTureous)

 

 

キャンプ・コートニー/マクトリアス

キャンプ・コートニーは沖縄県うるま市にあるアメリカ海兵隊の駐屯地です。

この基地は沖縄戦で戦死して名誉勲章を受章した、ヘンリー・コートニー少佐にちなんで命名されました。

1945年、米陸軍の物資集積場として開設されました。

1958年、米海兵隊基地として使用が始まりました。

キャンプ・コートニーに隣接するキャンプ・マクトリアスは軍人やその家族の住宅地として使用しています。

キャンプ・マクトリアスは沖縄戦で戦死して名誉勲章を受章した、ロバート・マクトリアス2等兵にちなんで命名されました。

任務

 

キャンプ・コートニーには在日米海兵隊の司令部があり、駐在する部隊や住人へのモラル、地域交流、安全そして防衛支援を提供しています。

キャンプ・マクトリアスは、施設内に住む軍人やその家族の支援を行っていて、施設内にはベクテル小学校があります。

地域への関与

日本人のための英会話教室、フリーマーケット、コートニー・クリスマスフェスティバル、みどり町内のごみ拾いなど様々なイベントを通して米軍人やその家族と地元地域との調和を推進しています。

Expand List item 8208Collapse List item 8208  キャンプ・ハンセン(Camp Hansen)

 

キャンプ・ハンセン

キャンプ・ハンセンは沖縄県金武町にあるアメリカ海兵隊の駐屯地です。

基地名は沖縄戦で戦死し名誉勲章を受章したデール・ハンセン2等兵にちなんで名付けられました。

1945年、沖縄に上陸した米軍は金武村に2000メートルの金武飛行場を建設しました。

1956年、金武飛行場は最盛期を迎えましたが、現在その飛行場は存在していません。

1957年、キャンプ・ハンセンとして使用が開始され、ベトナム戦当時、米国とベトナムの中間通過地点として使用されました。

1997年、実弾砲兵射撃訓練は本土へ移転しました。

2008年、陸上自衛隊も同施設内で訓練ができるようになりました。

任務

キャンプ・ハンセンには中部訓練場が隣接しており、米国内からの部隊配備プログラムを受け入れています。

この施設は戦術的作戦訓練基地であり、第三海兵遠征軍の訓練設備の維持・運営を支援しています。

地域への関与

キャンプ・ハンセンは基地周辺に住む金武町住民や地元で働く人々と揺るぎない関係を持続しており、交流を深めるために商工会議所行事やスポーツなどの地域社交行事に参加しています。

基地に駐留する部隊は、地元の病院、孤児院、老人ホームなどの支援も行っていて、地元からの要望があれば、基地内の緊急医療も利用可能です。

年数回行われるフレンドシップデイでは、基地のゲートを一般開放し、基地周辺に住む地元の方々のみならず全国の市民を対象に、基地内に招待しています。

さらに夏恒例のハンセン・フェスティバルには、毎年数千人の一般市民が基地を訪れ、交流を深めています。

Expand List item 8206Collapse List item 8206  キャンプ・シュワブ(Camp Schwab)

キャンプ・シュワブ

 

キャンプ・シュワブは沖縄本島北部の久志岳下方傾斜に位置するアメリカ海兵隊の駐屯地です。

名前の由来は、沖縄戦で名誉勲章を受章したアルバート・シュワブ1等兵にちなんで名付けられました。

1944年、日本帝国海軍の潜水艦基地として大浦湾ビーチに基地が建設されました。

1945年、米軍がこの地域を占領し、補給基地として使用しました。

1946年、米軍は撤退し、住民により芋や米などの耕作が始まりました。

1956年、基地候補地交渉が行われ、久志村が選ばれました。

1957年、基地建設工事が始まりました。

1959年、アメリカ海兵隊の最初の部隊がキャンプ・シュワブに到着し、現在に至ります。

任務

キャンプ・シュワブの任務は訓練施設の整備と運営を行い、部隊配備プログラムに参加している歩兵部隊、戦闘強襲大隊、偵察大隊に施設を提供し、サポートすることです。

第3海兵兵站群が辺野古弾薬補給所を運営しています。

地域への関与

キャンプ・シュワブでは2002年より、基地内にある教育センターで地域社会人に英語講座を毎週提供していて、受講者の延べ人数はゆうに1000人を超えています。

イースター、ハロウィーンやクリスマスなどのアメリカのイベントやスポーツ交流で地元児童や父兄を基地内に招待したり、ボウリングや懇親会で地元首長らを招待したり、一般公開のフェスティバルなど、一年を通してさまざまな地域交流プログラムを実施しています。

またキャンプ・シュワブは辺野古区第11班として地元住民と共に辺野古ハーリー、辺野古運動会、沖縄すもう大会、大綱引き、名護桜祭などの文化交流プログラムにも積極的に参加して地元との親交を図っています。

Expand List item 8211Collapse List item 8211  キャンプ・ゴンサルべス(JWTC)

 

 

キャンプ・ゴンサルべス(JWTC)

 

1958年、沖縄本島最北端の国頭村と東村にまたがる森林地帯に、ベトナム戦争での対ゲリラ戦略学校として北部訓練場が作られました。

1986年、北部訓練場は沖縄戦で戦死して名誉勲章を受章したハロルド・ゴンサルベス1等兵に敬意を表してキャンプ・ゴンサルベスと命名されました。

1998年3月、北部訓練場はジャングル戦闘訓練センター(JWTC)と改称しました。

2016年12月、施設の過半以上の土地、4000ヘクタールが日本側へ返還されました。

 

任務

この施設はアメリカ国防総省唯一のジャングル訓練施設で、歩兵訓練、ヘリコプター訓練、脱出生還訓練、救命生存訓練などの密林環境下での過酷な戦闘へ備える訓練を専門家による教導を通して提供しています。

年間を通して数千人の在日米軍がジャングルスキルやサバイバル脱出訓練で施設を利用しています。

地域への関与

継続的に地元住民との交流を図り、機会がある度に施設を一般開放し、海兵隊員が実際に行っているロープを使った下降訓練や綱渡りなどを体験でき機会があり、さらには海兵隊が使用している水陸両用車両などの展示もあり、中に乗り込むこともできます。

Expand List item 8215Collapse List item 8215  伊江島補助飛行場(Ie Shima Airfield)

 

伊江島補助飛行場

伊江島は沖縄本島本部半島から北西へ約9kmに位置し、島へは本部港からフェリーで渡航できます。

1945年4月、米陸軍第77歩兵師団により占領されて米陸軍航空隊飛行場となりました。

戦後は、米空軍が西側を空対地砲撃に使用して爆撃射程訓練を行いました。

最も訓練が頻繁に行われたのはベトナム戦争時で、1989年に米海兵隊に移管され現在に至ります。

任務

米海兵隊作戦支援分遣隊(OSD)は海兵隊のみならず陸軍や空軍の各部隊支援を行い、安全で効果的な訓練環境を提供できるように取り組んでいます。

米海兵隊太平洋基地の管理下で施設を運営・維持しています。

現在、実弾訓練は行われていませんが、1500メートルの舗装されていない珊瑚からなる滑走路や、擬態の強襲揚陸艦甲板、そして貨物や人員のパラシュート訓練に使われる降下訓練地域があります。

施設の任務は、飛行場での軍事行動の際に伊江島上空での航空機進路誘導、航空機救助および消火活動の支援等です。

地域への関与

OSDには海兵隊員と20数名の日本人従業員が勤務していて、日本人従業員は伊江島民で、警備員、地元との連絡員、大工そして射撃場の管理を担当しています。

毎年、OSDは海兵隊の設立記念日に施設を開放し、訪れる招待客の約65%が島民で、さらにOSDの海兵隊員らは地元行事などにも積極的に参加し親交を深めています。

普天間航空基地

普天間基地は沖縄県宜野湾市に位置し、那覇空港から北に約10kmの場所にあります。

1945年、米陸軍が飛行場を建設しました。

1957年、米陸軍から米空軍へ移管されました。

1960年、米空軍から米海兵隊に移管され、現在に至ります。

任務

国連指定施設で、滑走路は2700メートルあり、ほとんどの航空機を支援できる機能を持ち備えています。

普天間基地の任務は、施設の維持と運営そして役務や物資を提供して海兵航空団やその部隊の運営を支援することです。

地域への関与

普天間基地周辺では騒音やその他の環境汚染に対する環境要因の重要性が高まっていて、必要に応じて市長や市役所職員と話し合いを行っています。

普天間基地では毎年フライトライン・フェアーを開催し、地元住民を基地内へ招待し、親交を重ねています。

キャンプ富士

 

1947年、日本軍富士裾野演習場に連合国軍が進駐を始め、米軍東富士演習場と呼ばれる。

 

1953年、北側にあったキャンプの一部が米陸軍から米海兵隊に移管される。

現在のキャンプ富士は、富士山ふもとの陸上自衛隊の東富士演習場に隣接し、米海兵隊が常駐しています。

キャンプには兵舎、兵士食堂、消防署、医療クリニック、冷蔵施設、ジム、郵便局、図書館、下水道処理施設などが完備しています。

沖縄に駐留する砲兵部隊が富士演習場で実弾射撃訓練を行っています。

任務

在日米軍に訓練施設としての施設維持と運営そして役務や物資を提供して在日米軍の様々な部隊の訓練を支援することです。

地域への関与

地域との文化交流は訓練実施と同時に計画されることが多く、隊員が日本の伝統や文化を学ぶ、絶好の機会であると同時に、地域の人々にとっては海兵隊だけではなく、アメリカについても学べる機会となっています。

訓練に参加する部隊の上層部は、地域の人たちが訓練について事前に周知されるよう、地元の首長たちと話し合っています。


 

岩国航空基地

岩国航空基地は東京の南西、約960キロメートル(約600マイル)の位置にあります。岩国航空基地のある岩国市は本州南端の山口県の東部にあり、市の北部は広島県大竹市と隣接しています。岩国市は後方を山に囲まれ、前方には瀬戸内海を臨んでいます。その岩国市には西から東へ錦川が流れており、岩国航空基地は錦川のデルタ地帯(三角州)上にあります。錦川は15万人以上の岩国市民の生活用水、また市内に多数ある工場の工業用水として非常に重要な役割を果たしています。

米海兵隊岩国基地には米軍と海上自衛隊が駐留しています。米軍は第1海兵航空団(司令部は沖縄)のおよそ半数と第3海兵兵站群の分隊、海軍の第5空母航空団が駐留しています。また、海上自衛隊は第31航空群とその他の部隊が駐留しています。現在、岩国基地の人口は、米軍人、米軍属、米人家族、自衛隊員、日本人従業員などを含めておよそ1万3千人です。

岩国市の歴史

現在、航空機が離着陸を繰り返す岩国基地の滑走路は、約350年前は瀬戸内海の底に沈んでいました。元々海であったこの場所は、昔の日本人が何百年もかけて埋め立てたものです。これが岩国の歴史の大部分であり、現在の岩国基地がどのようにして建てられたのかはほとんど語られることはありません。

1600年代初め、毛利家家臣であった吉川家は、関が原の戦いで破れた毛利家に伴い、毛利家が減封された周防長門(現在の山口県)の東端に位置する岩国領を与えられました。初代領主の吉川広家は錦帯橋の西にある城山に岩国城を建てたが、吉川家はあまり恵まれた立場ではありませんでした。吉川家が課せられていたのは6万石の年貢でしたが、実際に与えられていた土地は3万5千石でした。この状況を改善するため、吉川家は山を開墾し、海を埋め立てるよう家臣に命じました。それ以降、干拓事業が進められ、その埋立地の最大の面積を占めるのが川下地区のデルタ地帯で、岩国基地が現在建てられている場所です。埋め立てられた海岸の広さはおよそ2,000エーカー(8.1平方キロメートル)です。

岩国基地の歴史

1938年に日本政府が海軍基地を設立するために買収するまで、川下地区のデルタ地帯はすべて農地と集落でした。新しく建てられた海軍基地は1940年、7月8日に運用を始めます。第二次世界大戦が始まった時、岩国基地は訓練基地としても使用されていました。1943年、9月、江田島旧日本海軍兵学校の分校が岩国基地内に設立され、約1000名の士官候補生が常時訓練を行っていました。その後、岩国は1945年、8月に米軍のB-29爆撃を受け、その被害は製油所、鉄道運輸事務所、鉄道駅周辺に集中していました。岩国が最後に空襲に遇ったのは、終戦のまさに前日でした。

第二次世界大戦終戦時、最初に岩国に進駐した連合軍は米海兵隊でした。第二次世界大戦後は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなど、さまざまな国の軍が岩国基地に進駐しましたが、1948年にオーストラリア空軍基地となりました。

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、国連軍(オーストラリア海軍と米空軍)が岩国に派遣されます。朝鮮で前線に立つ部隊を支援するため、岩国基地からは航空機が毎日発進し、給油と再軍備のために毎晩帰還しました。当時、岩国基地に部隊指揮所があったため、岩国基地は「朝鮮への玄関口」と呼ばれていました。1952年、4月1日、岩国基地は米空軍基地となります。その間、米空軍は岩国基地内の大規模な施設改修を行いました。1954年、10月1日、岩国基地は米海軍基地になります。1956年7月、第一海兵航空団(1st MAW)の司令部が朝鮮から岩国基地へ移駐され、約2,500名の海兵隊員を受け入れるために基地の北側が大幅に拡充されました。

1958年、岩国基地は米海兵隊の管理下におかれ、米海兵隊岩国航空施設となります。その後、1962年に正式に米海兵隊岩国航空基地(Marine Corps Air Station Iwakuni)となります。岩国基地の広さは約1,300エーカー(約5.3平方キロメートル)で、その任務はテナント部隊や船舶の運用、維持、および供給を支援することです。

現在の岩国市と岩国基地

現在の岩国市の主要な産業には石油化学工業、製紙工業、繊維工業などがあり、岩国市は瀬戸内工業地帯の一部を形成しています。また、岩国市内を行き来する岩国基地駐留のアメリカ人は、国際的な雰囲気を作り出しています。岩国市民は概して内気で遠慮がちですが、岩国基地コミュニティのアメリカ人たちと知り合いになる機会を喜んでくれています。

1997年、瀬戸内海を800メートル(0.5マイル)埋め立て、岩国基地の滑走路を1キロ沖合いに移設する滑走路沖合移設事業が開始されました。土地の埋め立てには岩国市の愛宕山から掘削された土砂が使用され、船で約4.8キロ(3マイル)離れた現場まで運ばれました。事業の主な目的は、騒音と安全に対する懸念を軽減し、基地と地域社会とのよりよい関係を強化するためです。事業は2010年3月に終了し、新滑走路は同年5月から使用開始されました。

また、2012年12月には岩国錦帯橋空港が開港しました。