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米海兵隊基地キャンプ・シュワブで開催された「第38回キャンプ・シュワブ/USOクリスマス・チルドレンズデイ」で、地元の人々に日本語で閉会のあいさつをするペリー大佐、2019年12月7日

Photo by Yoshie Makiyama

運命の導き-在沖海兵隊空手家、空手発祥の地、沖縄を愛す

26 Apr 2021 | Yoshie Makiyama U.S. Marine Corps Forces, Japan

2019年にキャンプ・シュワブで開催されたクリスマスパーティーで、長身の青い目の紳士が、参加した近隣地域住民に日本語で挨拶をしていた。彼の日本語は通訳を必要としないほど流暢で、その立ち居振る舞いは日本人を彷彿とさせるものだった。

この紳士は、現在キャンプ・コートニーにある第3海兵師団の副師団長ジェイソン・S・D・ペリー大佐だ。彼は、2018年にキャンプ・シュワブの第4海兵連隊の指揮官として沖縄に赴任してきた。ブリガムヤング大学で日本語の学士号を取得した後、1994年に海兵隊に入隊。退役海兵隊員の父親も、1960年代のベトナム戦争中に沖縄に駐屯していた。

運命の廻り合わせ

海兵隊の家系とはいえ、ペリー大佐が初めて日本に来たのは海兵隊とは無縁のものだった。彼には日本とのユニークなつながりがある。

1989年、大学を2年間休学した彼は、宣教師として来日した。その間、岐阜県、富山県、愛知県を訪れ、旅をしながら日本語を学んだ。

しかし、彼は日本語をただ単に道中で学んだだけではなかった。ペリー大佐が日本語を学ぼうと思ったのは、それより数年遡る。父親がアメリカで空手の上級指導者だったこともあり、1987年、当時高校生だったペリー大佐はバージニア州で行われた空手合宿に参加し、沖縄出身の儀武息一空手範士の息子と同室となった。

二人の高校生は会話を試みたが、お互いの言語をあまり知らないため、何も話すことができなかった。「本気でやるなら日本語を勉強しないといけない。」ペリー大佐はこのとき、日本語を学ぶことの重要性を痛感したという。

この出来事は、30年近く後に驚くべき出会いにつながっていく。2016年10月23日、那覇市の国際通りで、第6回世界のウチナーンチュ(沖縄にルーツをもつ沖縄県系人)大会が、「空手の日記念演武祭」において空手の「形」の集団演武の数でギネス世界新記録に挑戦したときにそれは訪れた。向かいで演武を披露している人の顔に見覚えがあった。定かではなかったペリー大佐は、その人物に話しかけた。そして、その人物がまさに1987年の空手合宿時のルームメイトだった儀武氏本人であることを確認した。4千人以上の参加者の中で、儀武氏が30年ほど経っても見てすぐわかり、これほど近くで演舞していたのは正に運命的だった。

空手発祥の地沖縄での衝撃的な出会い

ペリー大佐が初めて沖縄を訪れたのは、大学を卒業した1995年、沖縄県指定無形文化財保持者の仲里周五郎氏が運営する那覇市にある沖縄空手道小林流小林舘協会の安謝総本部道場での合同稽古に参加した時だった。青年ペリーはこのイベントで通訳兼研修生を務めた。

空手発祥の地にいるという衝撃は、この若き空手愛好家にとって絶好の転機となった。3歳から空手を習っていたが、初めて「空手の世界」を目の当たりにしたのだ。

「空手だけでなく、三線もエイサーも琉球舞踊もすべて沖縄の文化の一部です。アメリカでは、空手はやるものであっても、文化の一部ではありません。」

当時を振り返り、「空手がなぜこのような形になったのかを理解するには、沖縄の歴史、地理、文化、そして生活様式を理解する必要があります。さまざまな要因が重なって、空手が発展したのです」と言葉を続けた。「このような武道の側面は私にとって興味深いものでした。」

海兵隊員としての日本語向上

海兵隊に入隊してから、ペリー大佐は日本に来る機会に何度もめぐまれた。最初のチャンスは2000年に横浜で、米国国務省日本語研修所で1年間上級日本語を学んだ時だった。 2004年から2007年までは、米国政策担当国防次官付の日本部長を務めた。

2007年から2014年の間には、6か月交換で行われる部隊展開配置プログラムのローテーションで沖縄にも何度か来た。また、2015年には日本防衛研究所への留学生として海兵隊から選出された。ペリー大佐によると、当時研修していた50人のうち外国人は6人だけで、授業はすべて日本語で行われたという。

噂の師範との出会い

キャンプ・ハンセンに駐留していた大尉時代のペリー大佐は、ある時、父の友人である元海兵隊員からずっと話を聞かされていた空手家を訪ねた。事前に連絡したわけではなかったが、少林流範士の島袋永三氏は、この海兵隊員の空手愛好家を快く自宅に迎え入れた。2時間ほど話をした後、師範に空手の稽古の指導をお願いしたが、島袋氏は断りつつも、「また来なさい」と言った。

再び訪問し、また2時間ほど話をした。しかし、ペリー大佐はこの時は範士の弟子になりたいとは伝えなかった。三度目の訪問で、島袋氏は彼を道場に招いた。道場は美しく、偉大な師範たちの写真が飾られ、すべての稽古用具が揃った典型的な沖縄の道場であったと少年のように目を輝かせてペリー大佐は語った。

「島袋永三先生の下で一年間修行できたことは、私にとってとても素晴らしい経験でした。」

地域社会の重要な一員となる

キャンプ・シュワブの基地司令官を務めていた頃は、地域住民との交流を楽しんだ。キャンプ・シュワブは名護市辺野古区の11番目の居住班と認識されており、ペリー大佐は居住班の11班の班長を務めた。彼は、辺野古青年会の特別演武者として、3年に1度、旧暦のお盆の時期に行われる「村踊り」で、古武道の「櫂の型」を披露した。ハーレー(爬龍船競漕)や沖縄角力(相撲)にも参加した。

キャンプ・シュワブの基地渉外官の伊波文雄さんは「伝統芸能を次の世代に伝える行事に外国人が招かれて、演武を披露したのは後にも先にもペリー大佐ただ一人です」と感慨深げに話した。

伊波氏によると、「村踊り」は受け継がれてきた組踊や狂言を披露して五穀豊穣に感謝する行事で、踊る前に、青年会の棒術が行われるという。

「村踊りに参加できたことは、私にとって非常に特別なことでした」と振り返ったペリー大佐は、流暢な日本語が話せるとはいえ、日本人の中では部外者のように感じるという。しかし、第11班の班旗を持ち、古武道の「櫂の型」を披露したとき、「地元」(地元住民)に近づいたように強く感じたそうだ。

「私たちは部外者ですが、近い存在です。私達は辺野古社会の一員です」と笑った。

空手愛好家として沖縄に来た一介の観光客だったペリー大佐は、今では空手師範となり、キャンプ・シュワブ基地司令官として辺野古区第11班の班旗を持つ、地域の重要な一員とまでなったのだ。

彼が信じるもの

現在、紅白帯教士七段のペリー大佐は、自分よりも先に他人を思いやり、生涯にわたって一つのことを極めることに専念するという考えを尊重している。日頃の鍛錬、仕事、一貫性という概念を信じている。

「これらは私が幼い頃から学んだ日本や沖縄の理想であり、私の人生をこれまで支えてくれたものです。」

沖縄の方言である「まくとぅーそーけーなんくるないさー(努力し続けて正しいことをすれば、すべてうまくいく、本人解釈)」という言葉を、信じている。彼は沖縄の日常生活の中に「チムグクル(真心)」を見出すという。

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